小沢 ところで和田さん、なぜ日本に戻ってきたんですか? あれだけアウディで活躍してたのに。
和田 1つはまず日本が大好きなんです。たぶん凄く愛国心がある。
小沢 へぇ? 意外。正直、僕は今の日本には愛想尽かしたいほどガッカリしてます。特に原発対応ではガッカリした。
和田 もちろん日本には戻らないスタンスで出ました。と言っても、日本が嫌いというより、デザイナーとしてやっていくからにはそれくらいの覚悟が必要だと。特に僕の場合、家族の理解がありましたからね。家内は別の業界のデザイナーで「一緒にドイツに来てくれ」と言ったら、逆に「2〜3年行ってすぐ帰ってくるのでなかったらいいわ」と言われました。そういう覚悟が必要だと。でなかったら本物はつくれないことをわかっていたということです。
小沢 それは…ちょっとイイ話だ。
和田 だから僕はアウディに覚悟を決めて行ったのです。
小沢 でも、大変だったんですね。
和田 もちろん何度も苦しいことがありました。何度も辞めたい状況がありましたよ。でも約束だし、家内は海外に居る間は一度も日本にもどらなかった。彼女自身、常に“際”にいましたよ。そんな中でA6の奇跡が起こったんです。

小沢 やっぱりA6の担当は奇跡なんですか?
和田 奇跡ですよ。当時のアウディ経営陣は、別の案も考えていたようで、しかしフェルディナンド・ピエヒは最終的に僕の案を選んでくれた。彼は当時VWグループの会長で、会長として最後の仕事の1つがA6だったんです。あれはアウディにとっても物凄い"際"のプロジェクトであり、莫大なお金もかけている。だから企業全体としてブレイクスルーする必要があった。ピエヒもそうだし、直後に社長として入ったDr.ウインターコーンも彼が連れてきたワルター・デ・シルバもそうであった様に思えます。実際僕は、その後ワルターと実質的にいろいろなプロジェクトを進めましたから。
小沢 有名監督が有名チームに来て、今までに無い日本人選手を中心に据えて試合に勝ち続けた…みたいな話ですね。
和田 とにかく11年間、毎日が戦いの日々でしたよ。そして多くのモデルを輩出することができ、多くの貢献もできた。「やり尽くした」そう感じました。そうすると次の何かが見えて来たのです。だから、そろそろ引け際だなと考えたのです。
小沢 管理職は?
和田 基本的にアウディは僕に、シニアデザイナー兼クリエイティブマネージャーとしてのポジションを与えてくれていました。これも奇跡だったんですよ。本来、アウディはマネージメント管理職のポジションを得るのに最低でも1年以上のテストやトレーニングがありパーフェクトなドイツ語を求められていました。ルールだったのです。それをワルターは「Satoshiにはパーフェクトなドイツ語は難しい」と言って、直接社長であるウィンターコーンを説得してくれたのです。その後、「テストを受けないでマネージャーになったヤツがいる!」「しかも日本人!!」って、アウディ内で大きな話題になりました。嬉しかったですね。私の才能や実績をオフィシャルに認めてくれたのです。それは、私にとってもアウディにとっても何かを越えた瞬間だったと思います。アウディにはアウトローの血が流れていると思いました。
小沢 日本じゃそういうことってあまり聞かないですよね。
和田 ある程度、個人主義が働いている社会じゃないと無理でしょうね。そもそも今の日本の組織って、個人の能力を伸ばすようなシステムがほとんどないですから。
小沢 やっぱり…ない?
和田 日本の大企業はなかなか才能を使えない。決められた枠組みの中では才能を発揮させることは難しいことなのです。だから取り残された才能は中で空回りをするか、もしくは外に出て行くか2つの選択しかないのです。そういう意味でも、今の日本のマネージメントは変わるべき時が来てると思う。かつてアウディがやったように、海外からあえて人材を入れ起爆剤としてイノベーションを起こすような …